ちょうど一週間ほど前のことである。バイト前に朝早く起きてみると、TwitterのTLがやにわににぎわっている。なんでも『チェンソーマン』の藤本タツキが新しい短編漫画「ルックバック」を描いて、それが好評を博したということだった。

 普段はこうやって流れてくる漫画は読まないし、そもそも私は『チェンソーマン』を読んでいない。だから無視してもいいかなと思ったが、せっかく無料だしということで読んでみることにした。

 一読目の感想は「こんなものを描けるジャンプ作家がいるのか」というものだった。そしてこれは傑作であり、これが掲載された単行本が出たら買うし、なんなら『チェンソーマン』もアニメで済まそうとしていたが単行本を買おうと思った。

 ただその一方で、どうにもモヤモヤした気分にもさせられた。一週間ほど置き、他の人の意見も聞く中である程度の整理はできたので、ここにまとめておこうと思う。

 結論を先取りしていえば、本作が傑作なのは間違いない。だが傑作であることはその作品が無謬であること、無問題であることを意味しないのである。また仮に、作品が完璧でまったく問題がなかったとしても、それを読む読者と社会背景によって問題は生じうるのである。

1 京アニ事件の想起
 まず気になったのが、本作は明らかに、いわゆる京アニ事件を根底にした作品であるという点だろう。京アニ事件、すなわち京都アニメーションへの放火事件が起きたのは2019年の7月18日で、本作の掲載が今年の7月19日なので、ちょうど二年が経ったころに本作が発表されている。内容と、こうした発表の時期から推測して本作が京アニ事件を下敷きにしていると考えるのは至極穏当な推測と言えるだろう。

 最初に私の事件に対するスタンスを述べるなら、大勢の人間が死傷した恐ろしく、悼むべき事件であるとは思う。その一方で、私は京アニに対し特段の思い入れもないので(見たことのある京アニ作品は『氷菓』くらいのものだし)、それ以上のことを被害者に対して思ってはいない。例えば2008年に起きた秋葉原の通り魔事件の被害者に対して思うのと、感情的には大差ない。「恐ろしく悲しい」だがそれだけだ。その反面、犯人の立場についてはやや思うところもあるがそれは後述するとしよう。

 私はその程度の感覚しか持ち合わせていないので、「ルックバック」本作を読み、京アニ事件を模した事件によって登場人物のひとり京本が死亡するという展開を読んでも、読者としての衝撃は受けたが、それ以上の衝撃は受けていない。だが読者の中には、私よりも京アニ事件に対し深い傷を負った人もいただろう。中には関係者もいたかもしれない。むしろ有名漫画家が短編漫画を描いて、それが何やら絶賛されているらしいと聞けばクリエイターなら確かめてみようとするだろう。その中に京アニの関係者がいることはごく自然な成り行きとすら思える。

 そうした人たちが何の防御もないままに当該展開を読んだ結果受ける衝撃は、物語が持つ衝撃力とは別のものだ。震災の被害者に怪獣映画を見せて、怪獣が起こした津波で町が破壊される様を見せたとしよう。そのシーンに被害者が恐怖を覚えたとして、それは映画の力では決してないのだ。

 何が言いたいのかいうと、本来、こうしたセンシティブで他者の感情を不用意に荒立てるような事象を作品に用いる場合は、相応の注意喚起が必要だっただろうということだ。ニュースで津波の映像が流れる前に注意喚起をするがごとく、「本作には京アニ事件を想起させるシーンがあるので、読者はご注意ください」と一文を添えるべきだっただろう。

 確かに、あのシーンは京本が唐突に命を奪われることに意味がある。その観点に立てば、注意喚起は一種のネタバレになるかもしれない。だが前述の通りこのネタを隠して得られる衝撃力は本来作品が持つ衝撃力とは別のものであり、これを作品の力だと豪語するのはただの恥知らずだろう。

 仮に注意喚起が難しいとしても、その難しさを乗り越えて読者に作品を提供するのが作家、ひいては編集者の仕事である。アマチュアならともかくプロなのだから、その難しさは乗り越えてもらわないと困る。

 また、注意喚起がなかったことについて「作家ではなく編集の責任」とする向きもあるが、私は作家にも当然、相応の責任が生じて然るべきだと考えている。

2 そんな人はいない
 京アニ事件を連想させる、京本が大学で不審者に襲われるシーンについて、これは明確に精神疾患患者へのステレオタイプ形成に加担していると言わざるを得ない。



 詳細は上に掲げた二つのツイートと、そこにまとめられた記事に詳しい。端的に言えば、我々が想像するような、そして「ルックバック」で描かれるような「頭のおかしい殺人犯」はまず存在しないのである。斉藤環がドラマ『相棒』でかつて取り上げられた「シャブ山シャブ子」像を「迫真と言いつつそこに実体はない」と評したように、本作で描かれる大量殺人犯はとても真に迫った、そして実際にはどこにもいない存在である。

 本当に京アニ事件を模した事件によって京本の命が奪われる必要があったのか、というのは考えなければならない。京本の死因がコロナによる感染症や、その他なんら他意や事件性のない事故でなく、頭のおかしい精神異常者による殺害である必要はあったのか。

 私は一応、その必要はあったのだろうと思っている。それは藤野が空想する世界で京本を救うシーンに由来する。もし自分があの場にいて、習っていた空手キック一発で問題を解決できていたら。それは京アニ事件を目の当たりにした何人かが空想したもしもであろう。ゆえにこそ、本作は下敷きに京アニ事件があることは疑いようのない事実なのである。そして京アニ事件に対する追悼でもある。

 だがその一方で、その追悼は必要だったのかと思う。事件に対する追悼と書けば見栄えは良いし、漫画家として箔もつく。だがその追悼は、今まさに病と偏見に苦しむ精神疾患患者へ泥を投げつけてまでなされるべきものだっただろうか。精神疾患患者への偏見を助長しながら他者を追悼するお前は何様なのだと。随分とまあ、お偉い立場にいるようだ。


 私がこう思うのは、前述した通り犯人の立場に思うところがあるのと関係している。私は創作をしており、小説家を志す者であり、そして精神に(平均的な人間よりは)不安定さを抱えている。私は思いつめればいつか、どこかの出版社に「俺の作品を盗作しただろう」とガソリンとライターを手にお邪魔してもおかしくない。京アニ事件の犯人は、ひょっとするといつかの私かもしれないと思っている。

 だからこそ、本作の需要のされ方は、まるで私のように精神を病む危険がある人間を、社会がどう排除していくかというのをシミュレートしているようにも思える。精神異常者は理解できないモンスターとして、創作に命を燃やす被害者は尊い犠牲として。

3 悼まれない事件
 ここから先は読者の需要のしかたに関わる話だが、本作を読み、京アニ事件を思い出せば、どうしても関連して思い出されるのがあの事件だ。2016年の7月26日、まさにこの記事を書いている数日後に起きたあの相模原障碍者施設での大量殺人である。


 施設に暮らす多くの障碍者が殺されたこの事件は、簡潔に述べるならば優生思想に基づく殺人であった。この事件の犯人は障碍者を手にかける一方、施設職員は拘束するだけという恐ろしい峻厳さを持って、「殺していい命」を選別した。そしてさらに恐ろしいのは、この事件の後、犯人の思想に共感し、それを正しいものだと言い張る愚かしい人間が相次いで出現したことだ。

 ここには、京アニ事件の被害者に対する追悼とは明らかに質の異なるものがある。京アニ事件の被害者は「偉大なクリエイターの命が奪われた」と追悼されるが、障碍者福祉施設の被害者は悼まれるどころか、殺して当然とすら思われている。その追悼の差に吐き気すらする。そしてこの格差の極致が「ルックバック」だったと言うことはできる。

 ある事件を悼むとき、類似する別の事件を悼まなければそれは欺瞞か? 無論、それは違う。人間はすべての事件に対して哀悼の意を表することはできない。物理的にも、感情のリソース的にも。だがそれは個人の場合の話であって、その個人の場合が折り重なり、ひとつの傾向として現れるとき、そうは言っていられなくなる。ふたつの事件に対する哀悼の祈りの差異は、もはや個人が捧げる偶然の差では済まなくなっている。それについてさすがに作者に何かを問うのは酷だろうが、読者としては本来、「ルックバック」で悦に浸る前に、この差異について思考を巡らせるだけの知性は残してほしいところだ。

4 書くしかないのか
 こういうことを書くと、「だったらお前が障碍者福祉施設の事件に対する哀悼を書けばいいだろう」と言われるかもしれない。というか十中八九言われるだろう。オタクという連中はこういうまぜっかえしが大好きだから。

 言うまでもなく、書く必要はない。私が哀悼の物語を書かなかったとしても、それで私がこれまで述べた「ルックバック」本作の問題点……というより危うい点が消えてなくなるわけではない。



 だがあえて必要はないと強調したうえで、私はあらためて書きたいと思った。障碍者福祉施設事件に対する哀悼の物語を。もっと言えば「殺してもいい命」があると思い込んでいる連中をぶん殴る物語を。

 藤本タツキが何を思い本作を描いたのかは分からない。京アニ事件に対し何か思うところがあり追悼の意味を込めたのか。それとも単にテーマと京アニ事件がうまく合致し、掲載日を弄ればひと騒動起こせると踏んだのか。もし前者であるというのなら、私は彼がそう思い、追悼の物語を140ページ以上かけて書き上げたように、私にとっての哀悼の物語を書くのだ。

 繰り返すように書く必要はどこにもない。書かなかったとしても、私の言説をなんら棄損することはない。だが私は物語を求めているし、幸い、他の人よりはそういう作業に馴染んでいて、また時間的余裕もあるのだ。だから書く。

 「ルックバック」において藤野が漫画を描いていたのはなぜか。最初は人より上手かっただけかもしれない。それが京本というファンでありライバルであり相棒を得て変わる。残念ながら私の人生には藤野のような創作的な意味での挫折はないし、京本のようなライバルもいない。だが書き続けてきた。今、その書き続けてきたにひとつ新しい理由ができた。本作が私に与えた影響は、それだけで十分だ。