以前から思っていたことがある。いわゆる『無双チート』系の物語、まあ俺TUEEEとか呼ばれるやつだ、あの手の物語がつまらないと。

 じゃあ黙ってろよという声が聞こえてきそうだが、どっこいこのつまらないという感想を突き詰めるのは大事だ。オタクカルチャーにおいてはネガティブな批評が敬遠される傾向がある。いや、まあそもそもオタクカルチャーは批評の量も質もまるで足りてないとすら言われるのだが……。ともかくネガティブな批評を避ける紳士協定のような、暗黙の了解のようなものがあるように思われる。公然と「人間が書けていない」と揶揄されるミステリを愛好する者としてはぬるま湯に浸かってるなあと思わないでもないが、それはそれだ。

 ポジティブな批評もネガティブな批評も、ある作品の一側面から深く分析し、作品をさらに読み込むという行為であることは本質的に変わらない。その中ではむしろ、敬遠されがちなネガティブな批評こそ、どうしてつまらないのか、どうして嫌いなのかを明らかにする批評こそ、重視してしかるべきだろう。そこで今回はわざわざつまらないと思っているものを、どうしてつまらないと思うのかという点に焦点を当てていこうと思う。

1 常勝はつまらない
 いわゆる無双チート系と呼ばれる作品群が致命的に抱えるプロット上の弱点は、言うまでもなく必ず勝つという常勝の性質である。なにせ主人公を負けさせられない。それが作者の意地なのか読者の要請なのかは定かではないが……。

 しかし聞いた話によるとウェブ小説の世界じゃ主人公を苦戦させるだけでブーイングの嵐だとか。私も一応ウェブに小説を投稿する身だが、さすがにそんなブーイングを受けたことはないものの、もし受けたら素直に困るだろう。

 まあともかく、様々な要因から主人公が負けられないというのが無双チート系の欠点だ。ここで重要なのは勝ち続けることよりもむしろ、負けられないという点にこそ注意が行くところだ。負けられない、これが厄介なのだ。

 通常、戦いの勝ち負けとはどうなるか分からないものである。だからこそ応援にも熱が入るし、勝ったときの喜びは、ただ応援しているだけの人間でもそれなりのものになるというのはスポーツ観戦などの例を出さなくともよく分かる話だろう。ところが無双チート系は負けられない、負けないのである。勝つのが当然だから応援にも熱が入らない。勝ってもそれが当然だから嬉しくない。勝利のカタルシスが得られないのだ。

 物語なのだから主人公が最終的に勝つのは当然だろうと思う向きもあるかもしれない。それは一面では事実だが、通常の物語では場合によっては主人公を負けさせることが可能であることを忘れてはいけない。つまり「まあ主人公だし最終的には勝つでしょ」と思いつつも、読者の脳内には負ける可能性がちらつくのである。作者はそうした読者の意識を利用し、接戦を演出することが可能なのだ。

 一方の無双チート系は負けられない。これは構造的に不可能なのだ。野球がさながら九人でプレイされるという事実を不変のものとするように、無双チート系はその物語の構造として常勝不敗が組み込まれている。ゆえに絶対負けられないし、絶対負けないから接戦の演出も不可能なのである。これでは「もしかしたら」を読者に意識させることもできない。

 ゆえに無双チート系は絶対に負けないし、どんなピンチに陥っても勝つのが明白だから白ける。面白くないのだ。

2 勝つ手段もつまらない
 だが、無双チート系の物語を面白くする方法がまだないわけじゃない。それは勝ち方を工夫することだ。「ああその手があったか!」と読者に思わせることができれば負けないことが構造的に組み込まれていても、まだ物語としての面白さを担保できるだろう。

 しかし結論から言えば、それもまた構造的に不可能なのである。なぜならこれはただの無双ではなく、無双『チート』なのだから。

 例えば『オーバーロード』では転移先の世界が元の世界であるVRMMOゲーム『ユグドラシル』よりレベルが低く設定されていた。この時点でもうどうしようもないのだが、その上『ユグドラシル』が未来のゲームであるという点が『オーバーロード』の無双チートっぷりを加速させる。つまり『ユグドラシル』はNPCもアイテムも装備もプレイヤーが製作できるという特性を持っている。この未来のゲームという点を免罪符に、どんなピンチも「ゲームでこんなアイテム作ってました」で通り抜けることが可能になってしまう。あるいはとにかく「未来のゲームなのでこんな手を使います」ができるわけだ。未来のゲームであることを理由にどんな手段も取れてしまうので、「ああその手があったか!」とはならず、「え、そんな手ありなの?」感が増してしまう。

 他にも以前レビューした『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』では防御力に極振りするキャラクターが主人公として活躍する。この主人公が防御力を活かして困難を突破すれば面白みはあったかもしれない。しかし実態はさすがになろう系小説が原作だけあり、生易しくない。主人公は序盤から攻撃力を参照しないスキルをバンバン身に着け、攻撃力の無さも移動能力の無さもそれでカバーしてしまう。これも「そんな手ありなの?」感が増す。まさにチートと言って差し支えない何でもあり感だ。

 かように無双チート系は無双『チート』であるがゆえに、勝つ手段も限定される。限られた手のうちで勝利を掴むような物語にはならず、ピンチに際しそれにドンピシャで対応できる能力があてがわれ、それで突破するというのが基本的な形になってしまう。これもまた、物語の構造上避けられない。どうやら無双チート系は単純に無双するのではなく、その手段すら安易なものでなければならないようだ。当然これでは面白くなりようがない。

3 制約が物語を面白くする
 じゃあどうしたら面白くなるのか。これは簡単で、物語に制約があると面白くなる。

 例えば『ONE PIECE』のルフィが次から次へと悪魔の実の能力を身に着けていたらどうだろうか。物理攻撃はゴムで無効にして、大量の敵は炎で蹴散らして……とやっていたらつまらないこと請け合いだ。ルフィは『ゴムゴムの実』を食べたゴム人間で、ゴム人間という特性を活かすから物語が面白くなる。打撃や銃弾が効かない代わりに斬撃が弱点になる。誰もが苦戦する雷人間に唯一対抗できることが判明してがぜん物語が盛り上がる。骨風船や筋肉風船という外連味のある技が活きるのだ。

 要するにキャラクターにできることとできないことが明白にあって、短所をカバーしつつ長所を活かして戦うから活躍にメリハリが生まれて物語が面白くなるのだ。

 これは前述の『防振り』にも言えることで、主人公は防御力が高い代わりに移動能力が低い。そこで移動能力の高い仲間に追随するために『カバームーブ』を使って瞬間的に仲間の前に出るのを繰り返すという工夫をする。こうした工夫こそが本来は面白いはずだ。

 こうした制約が物語を面白くした例として分かりやすいのが『この素晴らしい世界に祝福を!』である。主人公のカズマは何のチート能力もないがこずるいことを思いつく、アクアは駄女神だが高レベルのアークプリーストで浄化が得意、めぐみんは高火力の魔法を使えるが一日に一発が限度、ダクネスはタンク役として優秀だが攻撃が当たらないとピーキーなパーティ構成をしている。彼らのこうした性質は普段はギャグとして消化されていくが、彼らは時たまバトルを繰り広げる。そこではカズマのずるさが戦術を組み立てる能力として活き、ダクネスの耐久力を活かして防御しつつアクアの浄化かめぐみんの魔法でどうにかするという、限られた手段で困難を突破する姿が描かれる。この作品はギャグで活かされる個々人の弱点がバトルではちょうどいい制約として働き、困難を突破するカタルシスを確かに作り出しているという意味で異世界転生ものに珍しい佳作だ。

4 つまらないけど見てしまう
 と、まあここまで散々つまらないと言っているが、一方でそれなりに無双チート系を見ているのも事実だ。最後にこの辺りを整理しておこう。

 常勝を構造的に約束された無双チート系がつまらないにも関わらずかなり幅を利かせているのは事実だ。この要因を私はストレスフリーな作風に求めている。

 勝つか負けるかという状態は基本的にストレスがかかる。特に接戦を演じさせる場合、主人公が負けかねない状態に一度ならず陥るからそのストレスはさらに強くなる。まあ結果的に勝って、それによってストレスが解放されカタルシスを得るのが基本的な構造なのだが。

 しかし最終的にストレスが解放されるとはいえ、ストレスがかかっているのは事実で、これが厄介だ。ただでさえ日常的にストレスを与えられている人間は、この物語が一時的に与えるストレスにすら耐えられない。既にキャパが限界なのだ。そこで無双チート系の、ストレスをまるで感じさせない話に需要が生まれる。実際、私も『オーバーロード』や『防振り』はあまり面白くないと思いつつも最後まで見てしまったが、ストレスがかからない分視聴のハードルが低いというのが大きいのかもしれない。

 他にも理由はあるのかもしれないが、このストレスを与えないという点が無双チート系においては大きなポイントになっているのも事実だろう。ストレスを与えないからカタルシスの解放がなくつまらない一方で、物語のストレスにすら耐えられない人にとってはストレスを感じない物語構造はかなりありがたいはずだ。