私は最近、レビュー動画を見るのにはまっている。まあ自分もレビューを書く身だから、動画を作ってみたいと思って参考に見ているというのもあるし、動画という形態でレビューがどこまで可能なのか知りたいという欲求もある。いくつかお気に入りのレビュワーができたところで、こんな動画を見つけた。


 
 『幼女戦記』は既にレビューしている通り、現代日本のエリートサラリーマンが神の怒りを買い、幼女として転生してしまう物語だ。転生した世界には魔法があり、そこで幼女ターニャになった主人公は航空魔導士という前線兵士として戦うことになるが、主人公は後方勤務を目指しいろいろと画策していく。ところがなかなかうまくいかなくて、という話だ。

 主人公ターニャは自称合理主義者だが、その合理主義が空回りを続けるのが本作の特徴である。その点について、神や信仰の存在を前提としない合理主義ってなんだよとか、人間が感情的な生き物であることを前提にしない合理主義ってなんだよと思ってはいたが、それ以上の言葉を尽くすのが難しかった。ところがレトロ氏による解説動画を見て、いろいろ納得がいった。

1 ターニャおじさんはシカゴ学派の擬人化である
 どうやら作者のカルロ・ゼンが雑誌のインタビューに答えて曰く、ターニャのキャラクターはシカゴ学派の擬人化なのだという。シカゴ学派? 経済学の用語だというところまでは理解できるが、そこから先が分からない。なのでここから先はレトロ氏の動画の解説に耳を傾けよう。

 まあ詳しくは氏の動画を見てもらうのが一番だとして、ここで重要なのはシカゴ学派が「人間は合理的であるという仮定に立ち」、「市場を信仰している」というこの二点だろう。そして特に重要なのが前者である。なるほど、人間は合理的だという仮定は確かにターニャの思考の基本形態だ。

 このシカゴ学派はいわゆる新自由主義を招いたと言われている。そもそも自由主義とはアダム・スミスの『神の見えざる手』に代表される、各個人が自己の利益を追及すれば結果的に社会全体において適切な分配がなされるという考え方のことだ。新自由主義はこの考え方を推し進めて、二つの思想を生み出した。

 ひとつはニューリベラリズム。簡単に言ってしまえば競争を公平にするために政府の介入を認め、最低限の社会保障を用意するというもの。節度ある自由な競争を求めていくものだ。

 もう一つがネオリベラリズム。とにかく市場への介入を最小限にするべきだという考え方で、仮に競争の結果貧困が生まれてもそれは競争の結果であると受け入れるものだ。ネオリベラリズムが新自由主義のメジャーで、これは自己責任論を生み出した。

 よく聞くネオリベラリズムってそういう意味だったのかあ。意外なところで意外な単語の意味を知る機会を得たものだ。教養としてのエンタメとはよく言ったもので、アニメや漫画でも切り口ひとつでここまで話を広げられるのかと思い知らされる。

2 合理的判断のための前提
 レトロ氏がここで強調するのは、新自由主義が仮定する人間が合理的であるという点についてだ。そもそも合理的な判断を下すためには「完全な情報を持っている」ことと「感情を排する」ことが条件で、それは満たしようもないために机上の空論となっている。

 ゆえに人間を合理的な生物と仮定するターニャは失敗を繰り返すわけだ。そもそも転生理由からして恨まれて駅のホームから突き落とされているわけだし。

 作中における敵国兵士アンソン・スーとの因縁、および劇場版でのアンソンの娘メアリーとの因縁もこうして考えれば理解できる。ターニャは二人を狂った狂信者としてしか見られなかったが、彼女の仮定に立てば人間は合理的で、恨みに支配されるはずはないためターニャにはこの二人がまるで理解不能だったのだろう。ここまでいろんな人間に恨みを買っていまだに理解できないのもおかしな話だが、そこはそれ、外は幼女でも中身は成熟したおっさんなので精神的成長に期待できないのだろう。

3 ターニャは情を揺さぶれるか
 最後に、ターニャが交渉を成功させるカギは情にあると動画では述べられている。要するに幼女としての外見の使い方の問題である。

 なるほど劇場版ラストではしおらしい対応を取ってそれなりの成果を上げた。また本編でも大学生活中に同窓生を後方勤務に回すなど、ターニャは外見的な策略で手を尽くしているように見受けられる。だがあくまでこれは無自覚的な側面が強いだろう。同窓生を後方勤務に回させるシーンはむしろファシスト的な思想が利用されていたわけで、これは合理主義に立っていたとすら思える。ターニャが情に訴える行動を苦手としているのは、プロパガンダのビデオ撮影をかなり嫌がっていたところからも明らかだ。

 彼女が幼女としての手腕を発揮できないのは、おそらく合理主義以外にもいくつか理由があるだろう。まずそもそも彼女は孤児院の出で、しかも孤児院の経営状態はよろしくなかった。そこは幼女らしく甘えて見ても効果は薄く、合理的に大人として立ち回った方が成果が大きそうな空間である。

 また帝国は合理主義ゆえに子どもでも重用するというかなり無理のある設定がなされているが、この点も大きい。兵士として有能であるさまを見せつけるにはやはり子どもとしてではなく大人として振舞うほかなく、ターニャはその十数年を子どもとしての振る舞いをあまり身に着けることなく育ったという経緯はありそうだ。周囲も彼女を表立っては子ども扱いしないことだし。

 結局劇場版ラストでは後方勤務が決まったと思いきや、自分が立案した部隊編成を自分で指揮するという形で前線に戻されてしまう。ターニャがエリートサラリーマンとしての自意識を捨てない限り、後方は夢のまた夢だろう。


 というふうに、『幼女戦記』という物語にシカゴ学派や新自由主義といった経済学の知識を組み込んで見ると、また違った物語の見方を楽しめることをレトロ氏が示してくれた。とにかく分かりやすくて素晴らしいので動画を視聴してほしいし、動画を気に入ったらチャンネル登録などしてほしい。個人的にもレビュー動画として参考になるところが大きかった。