馬鹿じゃねえの。これを何度も言っているのが馬鹿じゃねえの。という話。

1 それは誰にとって不愉快か
 中川氏不均衡って言葉知ってるぅ? という悪ふざけはそこまでにして。
 氏の言い分は自由というより無秩序に近い状態を指すだろう。
 そもそも、今の日本において誰かにとって不愉快な表現が出現するとして、それが誰にとって不愉快になるかという点が平等であると本気で思っているのだろうか。
 ほぐして言えば、氏の考える自由な状態において、老若男女にとって不愉快な表現が均等に出現すると思っているのだろうか。そんなことはあり得ないのである。無秩序化においては、権力のより強いものが得をするだけだ。
 『宇崎ちゃんは遊びたい!』の献血ポスター、『ラブライブ!』とJAのコラボポスターが代表的な例であるように、もし日本において不愉快な表現が出現するとしたら、それは第一に女性にとって不愉快である。一方、男性にとって不愉快な表現というのはほとんど出てこない。この不均衡が圧倒的に存在する中で「不愉快な表現が存在することこそ自由」と言ったとき、得をするのは誰なのかは言うまでもない。中川氏は得をする側だからこのようなことが言えるだけである。

 ちなみに誤解されやすい言葉なので先回りしておくと、不愉快という言葉はそれ単体で表現を批判するわけではない。人は差別されれば不愉快だし、自身の意志に反して性的に消費されれば不愉快だ。そうした不利を被った状態を総合して、言葉になるかならないかのうちにまず発せられるのが不愉快という言葉だ。あくまで第一声であり、大抵の場合その「不愉快」の内実は後に語られることになる。快・不快だけが表現を評価する基準だと思い込んでいる連中にはついぞ理解できないことだが。
 また、仮に不愉快という言葉が漠然とした意味しかもたなかったとしても問題はない。人は不快になる表現が公共に掲示されるのを我慢する必要はないからだ。「イヤなら見なければいい」が成立するのはその表現を見たい人だけが見られる状態に置かれたときだけであって、公共の場に不愉快な表現があることを社会に生きる我々が許容する必要はないのである。
 無論、表現を撤去するなどという対応を迫られる段階になればより詳細な論理を要するだろうし、掲載した側も商業的論理や倫理を複雑に絡めて評価する必要に迫られる。だが、まずは不愉快であることを許容する必要はない。
 不愉快であるのなら、それはそうと宣言されるべきだ。それが表現に対しいかなる結果を生むとしても、その気持ちは社会を生きる一人の成員として尊重されるべきものだからだ。

2 そんな「不断の努力」はくそくらえだ
 中川氏はついで「そういうのを「よろしくない」と糾弾して自分の正しさポイントを上げたくなるようなお気持ちをグッと堪えるのは立派な「不断の努力」で、それも公共性というものです」と知ったような口を聞く。ここにはいくつかの勘違いがある。
 まず、批判者が「自分の正しさポイントを上げ」るために批判をしているという勘違いである。これは典型的な悪魔化とでもいえる手法で、端的に言って批判者を馬鹿にしている。イラストレーターがこれだから日本の創作界隈は暗澹としている。
 言うまでもなく批判者の多くは表現に問題があると思っているから批判しているのである。決して先生からの評価を上げたがる小学生みたいな理屈では批判していない。
 そして先に確認した通り、氏の言うような自由を認めた場合、一方的に不愉快な表現に晒されるのは誰か。第一に女性と表現したが、これは多くのマイノリティも同様である。中川氏はあろうことか彼らの不快に思う気持ちに蓋をして、それを持って公共性であると任ずるのである。馬鹿じゃねえの。
 
 というより分かってんだろたぶん。
 こいつの言う表現の自由が達成されたとして、不愉快な表現に晒されるのは自分ではないとこいつは知っている。その上で実際に晒される人間には口を塞いでもらおうというわけである。
 そのくせにまるで自分がお気持ちを我慢しているかのような言い草。ばーかじゃねえの。