この件である。
 ことの発端はJAなんすんが『ラブライブ!』とのコラボポスターを展開したことによる。ポスターには当該作品のキャラクター高海千歌が起用されたが、彼女が着ている制服のスカート描写が問題となった。
​「スカート透けてる?」の指摘も JAのポスターに『ラブライブ』人気キャラ起用で批判の声――exciteニュース

キャプチャ

 通常ならまず発生しえないシワの表現は鼠径部、つまり股間の強調でありこれは性的なまなざしを持って描かれたものである。みかんの広告に対しこのような性的ニュアンスの表現はふさわしくないというのが批判の基本的な論調であり、当ブログもその基本方針に乗っかる形となる。
 というより、本題はここではない。
 本題は上記ポスター批判に応じ、数名のミステリ業界人が既に引用したようなツイートをしたことである。簡潔にまとめるならば、今回の批判はいずれ先鋭化しミステリにおける殺人描写すら忌避するだろうという発言である。
 しかし私は一介のミステリファン、そして表現の誠実な享受者として彼らの発言は軽率かつ被害妄想気味であることをここに指摘する。彼らの発言は、今回の広告表現とミステリジャンルにおける殺人描写の背景を完全に無視した暴論である。そのような暴論が平然と繰り広げられる現状に一ファンとして憂慮を示しつつ、いかに暴論であるかをここにまとめようと思う。
 ポイントは三つである。

1 発表媒体の差
 そもそも、広告において性的表現が殊更批判にさらされるのはなぜか。つい最近でも『宇崎ちゃんは遊びたい!』と献血のコラボポスターは問題視された(その経緯もブログ記事でまとめている)。
 こうした事態にはいくつかのポイントがあるが、今回は一点に絞る。それは広告のポスターという発表媒体である。
 第一として、女性を性的にまなざすのは一般的には悪いことである。なぜなら女性の身体はその女性個人の物であり、勝手に評価を下して、意味づけをしていいものではないからだ。仮に女性が主体的にセクシーかつエロティックな格好をしたとしても、それは自分がそうすると決めた主体性によるものであり、したがってその姿を見た人が性的な評価を与えていいというわけではない。
 女性個人が自身の身体を性的に表現することはあっても、他人が女性の身体を性的なものと意味づけることはあってはならない、ということだ。
 ただし、人間には表現の自由がある。言い換えればいかなる非倫理的な表現であれ、享受すること自体は自由であるということだ。そのため、一般的には女性を性的客体としてまなざす表現も、趣味の範囲であれば問題なく表現されうる。
 問題は、そうした表現が公の場に姿を現した時である。享受することが自由であるならば、同時に享受を拒否することもまた自由である。しかし、公の場に開示されてしまって後者の自由を行使することはできない。一方、公の場に性的客体表現を出さなかったとしても、享受する自由が失われたわけではない。依然として趣味の場であれば享受することができるからだ。したがって、性的客体表現は公にすることで享受する自由よりも享受しない自由を妨げるため、一般的には忌避されることとなる。

 ここまで話せばわかる通り、問題は公の場に出たときである。したがって、ミステリジャンルにおける殺人描写はそもそも公には出ていないのだからまったく問題にならないのである。ゆえに広告の批判が高じて殺人描写に口を出す、ということもありえない。

2 コンセンサスの差
 先ほどの話を聞いて、「じゃあすべての表現が享受しない自由を妨げるのだから制限されるのではないか!」と思う向きもあるかもしれない。まあ、そもそもそんな極端なことは起こりえないのだが……。
 無論、一般的に忌避される表現とそうでない表現というものがあり、一般的に忌避されない表現はこのような問題には至らない。重要なのは、まず性的客体表現が一般的には忌避されうる表現であるということを理解することだ。その上で、しかし享受する自由はあるのだと自覚するところから始まる。
 では一般的に忌避される表現とされない表現の差は何か。それは様々であるが、しいて挙げるならばコンセンサスの差を上げる事ができるだろう。
 そもそも、非倫理的表現はそれだけで忌避されうるということは前提として……。それでも性的客体表現と殺人表現に差があるとすればここなのだ。
 コンセンサスとは社会的な認識と言い換えてもいい。例えば、殺人は悪である。これは社会一般に通用する価値観である。このとき、「殺人は悪であるというコンセンサスがある」と表現することができる。
 コンセンサスがあると何が変わるのか。それは表現の悪影響が変わるのである。一般に、コンセンサスが存在する場合、その非倫理的表現を享受した際にその影響を受ける可能性が低減されるとされている。これは簡単な話で、社会的に悪である行為はその実行に処罰というハードルがあるからだ。例えば殺人描写の場合、仮にそれに影響された享受者が人を殺してみたくなっても、殺人は悪であるというコンセンサスがハードルになる。殺人は悪であるのだから、もし実行すれば高い確率でその罰を負うことになるからだ。人間は当然ながら、実行した場合にマイナスのある行為は実行しづらいものだ。
 まとめると社会的にその行為が悪であるというコンセンサスの存在は、もし実行した場合に処罰というマイナスが存在するというハードルを生む。そのハードルがブレーキとなり、仮に非倫理的表現に毒されそれを実行したくても実行できないという心理状態を生む。
 殺人は悪であるという社会では仮に殺人描写が肯定的に流れその影響を受けたとしても、コンセンサスの存在が悪影響を低減する。したがって殺人描写は比較的安易に流すことが可能なのである。

 これが一方の性的客体描写となると話が変わってくる。少なくとも日本では女性を性的客体としてまなざすことが悪であるというコンセンサスは成立していない。それは多くの場合女性声優に送られるセクハラまがいのメッセージを見るだけでも十分に分かる。このような社会で性的客体描写を垂れ流した場合、悪影響を減じることはできない。したがって悪影響をもろに受けて女性を性的客体としてまなざしそれを是とする享受者の登場を危惧しなければならない。というより多くのオタク層がまさにそうした享受者の集団として出来上がっているわけだ。ゆえに性的客体表現は、主として被害者になりうる女性から忌避されるのである。

3 市民権の差
 と、以上二点を比較すれば、広告における性的描写とミステリジャンルにおける殺人描写の差異はおおよそ明らかである。これをもってすれば、性的描写を批判する層が先鋭化してミステリジャンルに押し寄せるなどは被害妄想の類だと了解されるだろう。
 しかしそれでも妄想を捨てられない層はいるだろう。これはミステリ、いや探偵小説というジャンルが過去に受けた実際の弾圧を根拠にした不安である。しかしそれすれも私は馬鹿馬鹿しいと考えている。
 それは当時と現在での、ミステリジャンルの市民権の差異を考えればたちまちに了承されることだ。
 探偵小説勃興当時は、探偵小説は人殺しの文学でありけしからんという評価は確かに存在した。私もいっぱしのミステリファンとしてそういう評価を読んだことはある。
 しかしである。日本で探偵小説が勃興してからもういい加減百年近く経っているのである。今やミステリジャンルは社会に広い市民権を得ている。少年漫画に有名なミステリ漫画があり、ミステリ映画が大ヒットし、テレビドラマを作れば1クールに一本は必ずと言っていいほど殺人を扱う物語はある。
 にもかかわらず、市民権を得た現在と勃興当時を比較していつまでも被害者面をするのはいただけない。なるほど表現の自由とは繊細なもので、油断をすればいつまた自由が奪われるとも限らない。それは事実である。しかし表現の自由を守るとは、かつて被害者だった過去に恋々と執着することで達成されるものではないのは確かだ。何を守るにも現状の正確な認識が第一であり、被害者面を続ける限り正確な認識など得よう筈もない。
 この点、ミステリ業界に生きる人たちや多くのミステリファンに一考を願うところである。

※補足
 補足記事を書きました。

前回記事に対する須藤氏の反応への反論とコメント返し

 また、この記事の投稿後、以下のようにもツイートしました。