例によって例のごとく、フェミニズム的観点からの批判を稚拙に読み替えるお仕事ご苦労様です。とかなんとか、恨み言のひとつでも言いたくなるのが今のオタクカルチャーの現状だ。 漫画「宇崎ちゃんと遊びたい!」とコラボした献血ポスターが問題になった。批判に先鞭をつけたのが太田弁護士。NHKがキズナアイをノーベル賞解説の聞き手にした時も、その配置を批判した人だけあって、オタク界隈からはほとんどアレルギーにも似た反応を惹起させている。
 さてこの漫画を利用したポスターの何が問題なのか、わざわざ説明いる? というのが本音だがまとめておこう。

1 答:環境型セクハラだから

 問題は簡単で、この漫画の使用が環境型セクハラにあたるからである。
 環境型セクハラというのはセクハラの一形態で、女性のヌードや水着姿のポスターなどを万人が見えるところに掲示するなどすることによって、行為ではなく環境をそうすることによって引き起こされるセクハラである。公共の場に女性を性的客体として消費するものを置くことは、そうしたありかたを肯定するものであり、それが既に女性にとっては脅威である、ということだ。
 この手の批判に対しよく「現実の巨乳の女性もセクハラだというのか」という頓珍漢な非難が聞こえる。だが、本来女性の肉体はどの部位がどう露出しようとも、どの部位がどう巨大であろうとも性的なものではない。実在する女性の肉体が性的なものとして扱われるのは、まさに環境型セクハラのように女性の肉体を性的にみなす作品が肯定的に扱われ、それを(主として)男性が学習することによって起こる。
 裏返せば「現実の巨乳の女性もセクハラだというのか」という頓珍漢な受け答えは、それ自体がポスターなどによって発言者が「女性の肉体は性的なものである」と学習した結果であり、環境型セクハラの脅威を物語っているといえよう。

 じゃあ、今回のポスターはそもそも環境型セクハラなのかという点も議論になる。胸部そのものは露出していないため、「これくらいならまあいいんじゃないか」と考える層もいる。だが、公共の掲示物である献血ポスターに対し「これは環境型セクハラか否か」という問い立てが必要となる時点で、既にアウトと言っていいだろう。公共のポスターがギリギリのラインを攻める必要はないのだから。
 また、確かに胸部は露出こそしていないものの、過度に強調された描き方をされており、ここに胸部を性的にまなざすデザインを読み取ることはそうおかしなことではない。やはりその点から言っても、これが環境型セクハラであると断言してもいいだろう。

2 言っている内容もアウトだった
 当初はどうしてもイラストに目線がいきがちだったが、他の人の批判を見て内容面も問題だと気づかされた。
 引用したツイートが詳しいが、献血とは自分の血を提供するわけで、なかなかにハードルの高い医療行為である。また血液量の不足、感染症のリスクなど様々な理由から献血ができない層というのも存在する。ともかく献血とは自発的に行われるのを期待するほかなく、それをあのような煽る台詞を使用するというのは確かに問題だ。
 私は「宇崎ちゃんは遊びたい!」を読んだことがあるので、あのキャラクターがここで言及されている「センパイ」に対してこのような台詞を言うだろうことは想像がつくのだが……。まさしくそれは内輪のノリであって、公共の場に出して理解を得られるものではない。

3 オタク、すごいんだってさ


 今回の一件で少し気になったのは、「実はオタクの血液こそ献血に向いているんだ! オタクスゴイ!」てな論調があったことだ。オタクの内輪に対する僻目はいつものことながら、これはいただけない。
 おそらく今回のポスターがオタク向けであることを証明しようと躍起になったものと思われるが、結果は散々たるありさまだ。オタクが献血の上客だったという謎理論が先行する一方、そんな証拠はどこにもない。秋葉原は大都会だから人の集まるところに献血ルームを作るのは当然の成り行きだし、コミケも同じだ。性感染症のリスクが小さい云々に至っては言っていて悲しくならないのかという有様だし、別に献血できない理由はそれだけじゃないのでオタクがやっぱり上客とは限らないのだ。
 ツイートでも述べたが、ここにはどうにもオタクという属性に対するナショナリズムにも似た心象を感じずにはいられない。別に大してすごくもない、中身のないどころか証拠もないことを「スゴイ」と持ち上げるところは何となく「日本スゴイ」にも似ている。まあそもそもネトウヨとオタクは親和性高いし。